濱口竜介プロスペクティヴ in Kansai 2013.6/29[sat]-7/19[fri]

CONTRIBUTION 寄稿

「空間と人間の必然とその先」 中山英之(映画評論家)

映画と建築は似ている、と言われることがあります。本当でしょうか、仮に数人が集う部屋を考えてみます。そんなとき建築では、たとえば”分煙”のような地味な問題が主要な設計条件に浮上することがよくあります。そんなものは設計の問題ではなく人間の問題だ、と叫ぶことも含めて、建築とはそうした、空間と人間の隠れた必然にまつわる職業です。一方映画にとって煙草は、任意の誰かをカメラと一緒にベランダへ移動する口実を監督に与えます。移動はマイクの拾う音を変え、カメラマンに露出を変えさせ、編集に”あちらとこちら”を行き来する作業をもたらします。ただそれだけの淡々とした映画的手続きが、夫婦や恋人といったそれまでの設定を別々の空間に分割する。あるいは煙草を吸うひと/吸わないひと、というカメラの外にある社会的な構図の中に人物たちを再定義する。そんなふうに、空間と人間の必然から、また別の必然へと渡り歩く一連の手続きとその連鎖が、いつのまにか観客の内にドラマらしき何かを立ち上げてゆく。泣いてしまうことすらある。『PASSION』という映画がそうでした。建築家にとっても、空間と人間の隠れた必然は、仕事を前に進めるアリバイのようなものです。だからといって、煙草を吸うとか吸わないだとか、そんな私たちの日常まるごとを、あたかも今、この空間のためのアリバイに反転させてしまうほどのミラクルを、そうやすやすと設計できるものではありません。だから建築家には、そんな奇跡のとめどない連鎖の先に、わたしたちの日常を超えた”映画”というもうひとつの現実が立ち上がる、その瞬間のどれほどかを、ここに語る資格はあると思うのです。

ところで部屋とベランダがあれば、そこにサッシの設計が加わります。僕は濱口監督の窓越しショットの数々を思い出します。ガラスという素材の、あちらとこちらの照度差を駆使した透過と反射のせめぎあいについて。スクリーンでまた、確かめてみなければなりません。

  • 濱口竜介
  • 寄稿1:山根 貞男 -Yamane Sadao-
  • 寄稿2:中山 英之 -Nakayama Hideyuki-
  • 寄稿3:渥美 喜子 -Atsumi Yoshiko-